Profile
グラフィック・アーティスト
上野浩二(KOJI)
1967年 4月17日広島県福山市に生まれる。
1986年 地元の高校を卒業後、大阪デザイナー専門学校に入学。
1988年 大阪デザイナー専門学校卒業後地元デザイン会社に就職。(グラフィックデザイナーとして活動)
1993年 地元デザイン会社退職し地元印刷会社入社。デザインを担当。
1998年 地元印刷会社を退職し個人デザイン事務所ケーブランドを設立。
2001年 グラフィックデザイナーの傍らイラストレーターとして活動開始。


デザイナー:KOJI物語!
小さい時から絵が好き?
そう、あれはまだ私が物心ついていない2歳ぐらいの時だったのでしょうか、母親の言う話では、鉛筆を持つやいなや、おもむろに家の壁一面になんとラクガキを始めたのであります。親は何度となくラクガキを止めさそうとしたのですがラクガキを止める事がなかったそうです。
今も実家に戻ると、その絵が残っています。そして新聞の折り込みチラシの裏(白い紙)を与えていると飽きもせず延々と絵を描いていたそうです。こうして考えると絵が好きだったのかな〜?

文字に興味が?
ある程度物心がついてきたら、私はしきりに本を欲しがっていたようです。本屋の前を通ると本が欲しいと駄々をこねていたそうです。しかも、既に買ってある本でも欲しがってたそうです。私が思うのに、字を読むとか絵を見るとか、そういう意味で本を欲しがっていたのではないように思います。
単に書体(文字)にこだわっていたような気がします。当時「めばえ」という本の、タイトル文字の「めばえ」の「え」という字に凄くこだわっていたような…。
その頃は書体がどうのなんて当然知識も無いし、文字を読む事すら出来ていないのですが、明朝体の形として「え」という活字の美しい何かを感じていたのかも知れませんね。あんな活字は、鉛筆でただ文字を書いただけでは絶対に出来ない形なんだけど、レタリングした「え」も普通に鉛筆で書いた「え」も同じ「え」でどちらも普通に「え」と読めるのだけど、文字の美しさは全然違いますもんね。まあ、理論的にそういうことを考えてた訳でもなく、子供ながらに、ただ漠然と活字の「え」に何かを感じたのかなぁ〜?(笑)

小学校で一気に絵が好きに…。
4歳で保育園に入り、この保育園生活では、得にお絵書きとか工作などに特別な感情は無かったように思います。たぶん、みんなと同じようにしていたんじゃないかな。
そんな時、ある日の工作で、友達が出来ないと泣いて先生に手伝ってもらってるのを見て、どうしても自分の思うように出来ない時に、「出来ない」と、泣けば先生が手伝ってくれるということを知り、私は毎回泣いて先生に手伝ってもらうという姑息な手段をとっていたような気が…。(笑)
悪知恵は、はたらいていたんですね。
小学校に入学し、図画工作という授業に出会い、初めて「自分は絵が好きなんだ」という事に気がついたんだと思います。当然小学1年生だから、そんな目的を持ったような気づき方ではないですけどね。絵を描いていて楽しいといった感じはありました。先生からも上手と褒められ気分よくしていたことは間違いありません。
また、小学校の6年間では、数々の写生コンクール等で特選や入選をもらいました。このコンクールがどのようなものかは分からないまま、絵を描いて賞状が貰えるというのは、子供ながらに気分が良かったのを覚えています。

小学6年生から中学1年生で映画のタイトルロゴのとりこに!
小学高学年ぐらいから映画好きになり、よく映画を見に行くようになりました。その時にもらってきたパンフレットやチラシにでてくる映画のタイトル文字が、立体になっていたり、ひび割れていたりと面白いと感じ、レタリングというような大袈裟なものではないのですが、必至に模写していました。
その頃、私はレタリングなんて言葉すら知りませんでしたから純粋に文字の形が面白いと感じていただけなのでしょうね。マンガのキャラクターを描くのと同じ感覚で映画のタイトルを模写していました。
当時の映画として覚えているのは、「ジョーズ2」「007ムーンレイカー」「ナバロンの要塞」などですかね。懐かしい映画です。
そして中2になって美術部に入りました。1年の時は何故か剣道部だったんですよ。でも私はスポーツが苦手でしたから1年間で辞めました。でも、中学の時は、絶対に何かクラブには属さなくてはならなくて、適当に美術部選びました。美術部に入れば、夏休みに果物をモチーフにした静物画を油絵で描くのですが、絵を描くより果物に憧れたのかも?(笑)
皆で絵を描き終えたら、その果物を分けて食べたのですが、それが目当てで美術部に入ったような…。不純です。ハイ。
普段、口にできないメロンなんてもんがありましたから…。(汗)

高校時代に無理矢理美術部に!
私は、中学時代の自分が正直嫌だったんですよね。スポーツの苦手な奴でしたから。
高校に入ったら心を入れ換えて自分を鍛える為にとスポーツ系のクラブに入りたいと思ってました。それで、球技とかのチームスポーツは人の足を引っ張ってしまうので苦手でしたから陸上部なら…と、陸上部は、駅伝やリレー以外は単独競技ですしね。そう決めていたんですよ。
そしたら、美術部の顧問にしつこく入部を迫られ、中学時代に美術部だったという事だけで延々と勧誘されつづけました。私は、しきりに「陸上部に入るから美術部には入りません。」と断っていたのですが、顧問に「掛け持ちでいいから入って」との言葉に、この勧誘から逃れる為に、取り合えず入部して活動をしなければ良いのだと気がつき、名前だけ入部することにしました。
その結果、これが今の私をつくった基礎になってるのでしょうか…?
高校では、本当に美術部というのは名ばかりで活動は全くしていませんでした。そして、3年になり夏が終わり、陸上部を引退した後、デザイナーを目指したいと皆より遅い進路決断をしました。それから夏休みの間、毎日デッサンに明け暮れ1日最低5枚のデッサンを描いていました。美術部の顧問からは、デザイナーを目指す他の人よりかなりの遅れをとっているから、人の倍は絵を描かなくてはダメだと言われ、学校で絵を描き、家に帰っては絵を描き、必死に絵を描きました。

芸大3校、みごと撃沈!大阪デザイナー専門学校に。
そして、ついに受験。
芸大はどの学校も倍率が10倍以上の狭き門。受ける芸大3つ、全て不合格!
やはり、高校3年の夏からの突貫工事みたいな事して受かる訳がない。それで、受かったら皆そうしますよね。(笑)
とりあえず、うちの家計では浪人なんてそんな贅沢は出来ないので大学はあきらめ、専門学校でデザインを学ぼうと決意しました。専門学校なら何処が良いのかさっぱり分からず、取り合えずパンフレットの立派な大阪デザイナー専門学校に行こうと…。
しかし気づけば願書締め切りが明日!「郵送していたら間に合わない」すぐに願書を持ち新幹線に乗り大阪に向かい願書を提出してきました。これで、一安心。
翌日TVで大阪デザイナー専門学校のCMが…。
なんと願書受付期間が延長されている。一体なんだったんだ?
慌てて大阪まで願書持っていったのは…。とにかく私は大阪デザイナー専門学校に「みごと」…なのか?
入学する事ができたのでした。

初めての街、何もかもが新しい発見!
初めての大阪の街での下宿生活。何もかもが新鮮だった。街は地元と比べ情報に満ちあふれ、何もしないでも、勝手に情報が入ってくるのがとても嬉しかった。いつもの足は京阪電車を利用していましたが、車内を見上げれば車内吊り広告、駅の壁面には大きなポスター。街全体が、デザインの勉強の素材で溢れかえってるといった感じがしました。大きな街の人達には、当たり前の光景かもしれませんが、地方の田舎から出てきた私にはカルチャーショックさえ覚えました。地下道に入れば、迷子になり出口が分からなくなってしまったり、キャッチセールスには、呼び止められてしまうし、田舎者はそれなりに大変でした。(^_^)

専門学校では、知らなかった事だらけ…。
学校では何もかも、また新鮮でした。実は、グラフィックデザイナーを目指して、この大阪デザイナー専門学校にやってきたのですが、実は、グラフィックデザイナーがどんな職種なのか、どういった事をする人なのか、さっぱり分かっていませんでした。絵が描ければいいんだ、そう思っていました。私は、何も分からないまま、このデザインの世界に足を踏み入れてしまったのです。そして、それと同時に挫折感も味わいました。周りのみんなが絵が上手いのです。当たり前なのですが…。私もある程度絵がかけ、それまで自分より上手い人少なかったんですよね。自分も上手いと言われる部類に属してると思ってましたから。(^_^;)
でも、専門学校や美術大学って、絵の自信のある上手い人ばかりが集まってるんですよ。私より上手い人ゴロゴロいるんですよ。そのなかで、私は卒業までいけるのかな、なんて思い、必死でみんなについていこうと努力しました。友達にはそんな素振りは見せてなかったと思いますが、内心必死でした。

1年目で基礎を学んで、2年目でイラストレーションを専攻。
1年目は、デザイン全般にまつわる基礎を学び、なんとか皆についていく事が出来ました。2年目で学科を専攻するようになるのですが、アドバタイジングデザイン・タイポグラフィー・パッケージングデザイン・イラストレーションと4つに分けられました。私はどれも満足に出来なかったのですが、苦手なものから消去法で選び、最後にイラストレーションが残りイラストの道を専攻しました。とりあえず、イラストといってもどのようにしていいのか分からず、毎日、毎日、絵を描きました。画材もいろいろ試してみました。エアブラシ・水彩絵の具・油絵の具・パステル・アクリル絵の具等、はたまたファンデーション等の化粧品や醤油等の食品も使って絵を描いたりしてみました。

自分の絵が欲しい!
絵を毎日描いていると、ある日自分の絵ってなんだろうと思うようになってきました。その頃、私はイラストレーターの永井博氏や鈴木英人氏に憧れていました。また、イラストを学んでいますと、いろいろなイラストレーターさんの情報も入ってきます。そして、それそれのイラストレーターさんには、それぞれの、その人独特のタッチを持っていると言う事に気がつき。私も自分自信のタッチが欲しいとそう思うようになってきました。それと同時に、今まで描けてきた絵が上手く描く事が出来なくなったようにも感じました。しかし、どうして良いのか分からないまま、絵を書き続ける事しか出来ませんでした。

小さな力に、解決の糸口が…!
スランプになり、絵が描けず。気分転換に、街をブラブラ歩いていると、小さなギャラリーに辿り着きました。そこで展示してあったのは、4才と5才の兄弟の粘土細工や絵が飾られていました。私は、何気なく吸い込まれるようにギャラリーの中に入っていきました。そこにあった作品は、私が探していたものに巡り会ったような、そんな印象をうけました。そのとき、私はずっと自分のタッチとかテクニックに気を取られていて、自分で本当に描きたい物と言う事を忘れていたように思えました。このギャラリーにきて4才と5才の兄弟の作品を見て、あらためて思いました。当然4才と5才ですからタッチやテクニックなどこだわっていません。しかし、創りたいものを創る。描きたいものを描く。といった素直な気持ちで作品が出来上がっているので、見る者にストレートで納得させる力を感じました。その時、私は思いました。下手でもいい。描きたい物を描きたいように描けばいいんだと。

専門学校卒業の時。
スランプから抜け出た私は、純粋に描きたい物を描くといったスタンスに変わっていました。卒業制作も、人より多めに製作し、なおかつ自分を最大限に表現できたのではないかと思っています。満足のいく形で卒業することが出来たと思います。しかし、私は絵ばっかり描いていたため、卒業しても就職先が決まっていませんでした。えらいこっちゃ〜〜。(^_^)
しかも、その時、学校側から「仕事が決まってないのだったら、講師助手で学校に残らないか?」という誘いがありましたが、就職は地元に帰ると言う事を両親との約束にしていましたし、自分自信帰ると言う事を決めていましたから、誘いを断ってしましました。今から考えると少し勿体無かったかな〜なんて。しかし、KOJIの就職の行方は…。

新卒・中途採用!
地元に戻ってきたKOJIは、地元求人情報誌を見て、地元デザイン会社に就職したのでしたが、実は新卒の採用はすでに終わっており、中途採用と言う事で、就職する事が出来ました。そのため、普通新卒で入社した場合、研修というのがあるのですが、研修なしで実践に出る事になりました。入社して驚いたのが、私がずっと学生時代に絶対やりたくないと思っていた、新聞の折り込みチラシのデザインをすることになるのでした。と言ってもペーペーのKOJIは、もっぱらロットリングの線引きで綺麗な線を引くと行った練習からのスタートでした。いくらデザインの学校でロットリングを使って線を引いていたといえ、実際にプロとしての仕事として全く使えない線だったのです。綺麗な線は、引き初めと引き終わりにボタを作ってはならず、引き初めと引き終わりで均等な線を引く事だったのです。今は、PCを使いこんな線引きをしている新人さんなんていないでしょうけど、アナログ時代は、まず綺麗な線が引けないとデザインをするのはもちろん、版下も触らせてもらえなかったのです。綺麗な線を引くのに、1ヶ月間毎日線引きが続きました。線引きがまともに出来るようになったら、今度はトレーススコープ(トレスコ)による、ロゴ取りでした。毎日、先輩のデザイナーさんから、指定されたロゴを指定された大きさでロゴを紙焼きしていました。1日中、暗室にこもるなんてザラでした。それと、同時に使用する写真の切り抜き作業。クライアントさんが、大手マイ○ルのショッピングデパートと言う事もあり、写真の数は半端ではありませんでした。1枚1枚、写真の商品をハサミで切り抜いていくのです。終われば、ハサミを持っていた手がブルブル震えているのです。線引き・トレスコ作業・写真の切り抜きで約3ヶ月たちました。それから、始めて版下を触る事が許されました。

版下が触れる喜び。
デザインは、まだ出来ませんが、版下がつつける、それだけで凄く嬉しかったです。3ヶ月間ずっと、雑務ばかりでしたから。まあ、雑務と言っても重要な仕事なのですが、やっぱりデザイナーで就職したのだから、やっぱりデザインがやりたいじゃないですか。それが、そのデザインに少し近付いた版下作業だけでも凄く嬉しく感じましたね。校正用紙を見てその通りに訂正していく、そして、ここで写植の発注(写植指定)を教わるのでした。専門学校でも習いましたが、やはり学習と実践では、違いますね。また、実践では学校では気にしていなかった時間というのもシビアに気にしなければならないですから。全てにおいて1から学ぶと言った感じでした。版下をつつき出し入社して半年ぐらいで、始めてデザインをさせてもらいました。

デザインが出来る喜び、しかし凄いプレッシャーが…。
今では、考えられないのですが、初めてのデザインは店名周りのパブリックスペース。大きさにして5×10cmぐらいの小さなスペースだったと思います。しかし、実践で始めてデザインが出来ると言う反面、小さいスペースとはいえ自分のしたデザインが世間に出回る様になるのかと思うと、緊張してしまい考え込んでしまい。5×10cmの物に30分ぐらいの時間をかけてしまったように思います。その30分の間に、頭の中では学校で習った基本的な視覚誘導やアイドマの法則などがグルグルと駆け巡りました。一生懸命プレッシャーと戦っている私と、相反して先輩デザイナーは、言葉が悪いですがパブリックだから適当に考えていたんだと思いますよ。出来上がったデザインを渡すと、何か言われるかなと構えていたのですが、「遅かったね」の一言で、簡単にデザインを受け取ったのでした。(^_^;)

始めての本格的なB4チラシのデザイン。
そして、時がたち小さなデザインを数々こなしていると、始めてB4サイズのチラシのデザインを手掛ける事に…。デパートのチラシにしては原稿点数も比較的少なく簡単な物でしたが、初めての私には16時間ぐらいかかったのを覚えています。朝から始めたデザインは、終わる頃には、深夜になっていました。今から考えると2時間もかからないと思うのですけどね。1色物のチラシでしたから。でも、当時はデザインが出来る嬉しさと、自分がなかなか思うようにデザインの出来ないもどかしさの両方を感じながら必死だったと思います。そんなこんなで、大手ショッピングデパートのチラシデザインで徐々に力をつけ、3年目を迎える頃、入社当時から思い描いていた独立の夢が脳裏に浮かぶ様になってきました。(まだ、青二才なんですけどね。)そこで、今のデザイン会社では、経営の為の経理面が見えて来ないと思い、退社を考え、経理面が見えそうな少人数の小さなデザイン会社を探し始めるのでした。

そして、見つけた社長と社員3人の会社。
それから、デザイン会社を辞め、次の会社へ入社。そこは、社長と社員、私をいれて3人の会社。望んでいた経理面は、はっきり見えました。人がいないから、デザインから集金や雑務すべてこなしていかないと成り立たないのです。集金に行き領収を切ったり、ここの会社で初めての経験でした。経理面はデザイナーの修行のように時間のかかる物ではなかったのですが、この時会社が厳しい状態にあると言う事を知りました。小さすぎるから、なんでも見えてくるんですよね。(^_^;)
それと、この頃からデザイン業界にMacintoshの波が来はじめていました。そして、経理面も大体見えてきたし、ここではMacintoshの事は学べないと考え、退職を決意しました。

デジタル処理をうたい文句にしている、地元印刷会社に就職。
それから、KOJIは、地元の印刷会社に入社。ここの印刷会社は、地元の中でも先頭をきってデジタル処理に取り組んでいました。その印刷会社でデザインを担当し、また印刷の行程など身近に見る事が出来ました。しかし、印刷会社と言う事もあり、仕事の流れは印刷中心に流れていました。良いデザインよりも、いかに早くデザインを仕上げて、輪転機を止めないようにするかがポイントでした。また、Macintoshの導入も早く、KOJIが入社した時は、まだ版下作業がメインでしたが、その時の版下もデザイナーには評判の悪い、電算写植機の版下でした。電算写植機は、版下が1枚もので作れるが、制度はあまり良いものでは、ありませんでした。しかし、印刷屋にとっては版下にデコボコが出来ないため、従来の版下に比べ、影取りとか、ゴミ取りの作業が少なく楽に製版作業が出来るといった事で、電算写植機を入れていたのだと思います。しかし、入社して数カ月して、Macintoshが入ってきました。当時最強だった、クワドラ900。内蔵ハードディスクも、120MG。今では何も出来ないスペックですよね。(^_^;)途中バージョンアップして950になりましたけど。はっきり言って、全ての事が初めてで、しかも会社にMacintoshを使える人が誰もいないのですから。ここで、KOJIのMacintoshの独学が始りました。本当はデジタル処理のうたい文句の会社だから、教えてもらうつもりだったのですけどね。(^_^;)

話が違うぞ〜、しかも、不安定なMacintosh!
訳も分からずMacintoshに悪戦苦闘。必死で組み上げたレイアウト。当時は、よく分からず、こまめな保存など全くしていなくて。途中でシステムエラー(爆弾)が出たりして、今までのレイアウトが全てパーになったり、MOを落っことして、データーが消えてしまったり、また残業で1人真夜中に作業中にシステムクラッシュを起こしてしまい、訳も分からないまま、誰にも頼れず、説明書見ながらシステムの再インストールをして徹夜になったりと必要以上の苦労をしたように思います。当時のMacintoshは、とにかく不安定だったのを覚えています。Macintoshより、手作業の版下の方が、絶対に早く確実な物ができると、ぼやいていた時期もありました。しかし、このトラブルなど、自分で処理をするといった事を経験してきたから、今の自分が出来ているんだと思いますし、ある程度のトラブルでは、あまり動じない精神力が出来たんだと、思います。

印刷屋であるがゆえに、デザインに対する考え方の違い!
Macintoshもなんなく使いこなせ、一般にもMacintoshが仕事に溶け込み、当たり前になってきた頃、自分も会社で、係長まで昇進させて頂きました。しかし、デザインに対する考え方が、徐々に会社と私の気持ちの中で差がどんどん離れていく事を感じはじめました。それは、平社員→主任→係長と昇格するにつれ会社と私の気持ちの差が開いていきました。私は、純粋にデザインにこだわり、よいデザインを創りたいという気持ちに対して、会社は印刷屋であるがゆえに、印刷機を止めてはならない、質より量をこなすといった考え方でした。デザイナーがクライアント様に会うという事が出来ず、クライアント様に会うくらいだったら、その時間、営業がとってきた仕事の制作物を創る方がいい。営業が、クライアント様と打ち合わせをしてきているから、デザイナーはそれを形にすれば良い。そんな感じでした。結局、デザイナー=単なるMacオペレーターに過ぎなかったんですよね。その時、フッと、専門学校時代の恩師からの、すっかり忘れていた声が頭を過りました。
「印刷屋のデザイナーにだけはなるな!」…、そう言えば、卒業真際に言われたっけなぁ〜。

そして、決心!念願の独立!
自分の会社での地位が上がるにつれ、自分のやりたい本当のデザインからかけ離れていく。そんな気持ちがピークに達した時、ついに退職し独立して自分のやりたい本当のデザインを目指そうと決めました。これが、「K-BRAND」の切っ掛けです。最初は凄く迷いました。せっかく係長まで登り詰めた地位と、どうなっていくか分からない独立の道。しかし、自分は後悔したくないと独立を選びました。そして、念願であった独立し自分の事務所を持つといった夢が叶いました。1つの夢が叶ったら、また次の夢(目標)もできました。

自問自答!
独立したものの仕事は「以前の印刷会社からの外注扱い」と「数カ所の広告代理店からの仕事」で、仕事内容的にはサラリーマンデザイナーと何ら変わりない状態でした。変わったと言えば、毎月定額の給料ではなく仕事をしたらしただけの出来高制ぐらいでしょうか。次第に、毎日が同じ事の繰り返しで、しかも「フリーになったのは何の為なのか?」と言う事に疑問を抱くようになりました。
この時、収入面で言えば、会社に勤めていた頃に比べ遥かな違いで、「成功」していたと言えるのでしょうが、仕事の内容には、疑問がつきまとうようになりました。
本当に今までの延長線上での独立を自分は求めていたのだろうか…?成功とは、収入面だけで成功と言えるだろうか?本当の自分のあり方とは…、そして、2001年に本来やりたかったイラストの世界に足を踏み入れる。現在イラストに主力をおいて活動中。

デザイナー:KOJI物語!-おわり-




↓↓↓↓↓下記の提供で、お届けしています。↓↓↓↓↓
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送